『響け!ユーフォニアム』第6話 大吉山についての考察

先日、「リズ」を見てきた私はもう一度作品を見返したいと思った。

「ユーフォ」に関して多少なりとも考察ブログをチェックしている私は興味深い記事を見かけた。本稿でそのブログを紹介するというわけではないが、あがた祭りの大吉山のシーンを視聴者がどのように捉えていたかは非常に気になっている。

そのブログでは、麗奈の処女性の消失がメタファーとなってる考察がされていた。

確かにそういった考察は出来るが、これは所謂、性の問題への連結を感じざるを得ない。確かに、萌え的な要素はこのアニメに不可欠な概念であるし、表面的には百合的な要素を含んでいる。しかし、こういった表面的な要素は、物語の本質ではなく、商業的な見せ方に過ぎないと思われる。

もし、京都アニメーションが、大吉山に純白のワンピースで来た麗奈が、足の痛み、つまりは血、処女の消失と捉えられる様に描いたとすれば、それは物語の表現に関する欠陥とさえ私には思われる。

 

つまり、前述のメタファーが麗奈の処女性と直結して描かれているとする見方には、私は賛同できない。これには、以下のような理由がある。

 

  1、もし、麗奈の処女性の消失と描いた場合、それは京都アニメーションの失策 

    としか思えない。何故なら、これは物語のテーマとは異なるものであるからで

    ある。

  2、処女性の問題は性の問題へと連結されるからである。百合的な萌え要素

    はあくまで商業的な見せ方であって、それは物語の本質ではない。久美子とと

    もに描かれるシーンで、性的なメタファーを暗喩することは物語の根幹を壊し

    かねない。

 

というのが私の見解である。これまで私はブログで、脱共同体のテーマがこのアニメの根幹にあるということを論じてきた次第である。もちろん、こうした見方が正しい保障は全くないし、この主張を押し付けるものではない。前述にあげた処女性のメタファーとして受け取るというのも決して間違いだとは言い切れないだろう。

しかし、こうした所謂エロ要素は「ユーフォ」ではある意味、こちら側に恥ずかしさを感じさせるくらいに露骨な描写が多い。ならば、大吉山のシーンでわざわざこのようなメタファーとして描く必要よりもっと直接的な表現で描かれてもよかったのではないだろうか?

 

こうした考えはあくまで推測しか出来ないが、私はどうもこの作品に性的なメタファーがあるようには思いたくない、というのが本音である。

大吉山のシーンは久美子と麗奈の関係性を考察する上で重要なシーンであるし、私もよく考えてみたい。

 

では、あのシーンは何を描いたのだろうか?

純白のワンピースや靴擦れの意味は何か?という問いに繋がっていく。

 

振り返って考えてみよう。麗奈の性質は、孤高であり、他者と違った特別を求めている。そして、友人も特にいるような様子もなく、トランペットを続けるほど特別に近づくと考えている。この前提を踏まえたい。

 

純白のドレスはこうした麗奈の特性を象徴するものであって、処女性というよりかは、純粋無垢に特別でありたいをいう目標を持っている麗奈の性格を反映しているに過ぎない。

 

この後の問いにある

  久美子「こういうことよくするの?」

  麗奈 「こういうことって?」

  久美子「いきなり山に登ったりとか。」

  麗奈 「私を何だと思っているの?するわけないでしょ。」

     「でも、たまにこういうことしたくなるの。(中略)そういうの全部捨てて

      十八切符でどこか旅立ちたくなる。」

  久美子「それはちょっとわかる気がする。」

 

という場面が印象的だと思う。久美子は明らかに、麗奈の意見に対して同意する主張をしている。つまり、麗奈という孤高の天才的存在は、同意できるような他者を欲していたことがわかる。実際、麗奈には久美子は必要な存在であったようにアニメでは描かれている。

しかし、麗奈の言う「特別」は他人と同じではない、自身のアイデンティティーを保持するものである。一般的な部活のような共同体で均質化した、友人関係の中では排他されるべき思想であり、共同体を持つ存在からは共感を持たれないだろう。

そこで、どこか冷めた久美子の存在を求め、こうした自身の考えを共感できる友人を欲していたことがこのシーンに表れている。

続くシーンで、

 

  久美子「ずいぶんスケール小さくなったね。」

  麗奈 「それはしかたない、明日学校だし。」

 

という会話である。このシーンでは麗奈の一般的な思考から離れきっていないことがわかる。つまり、友人を欲しがっていたこともここにある。

孤高であり、天才である麗奈は、一般的な女子高生とは全く異なっているが、一般的な女子高生的性質を取り残している。よって、共感できる久美子という存在、友人を欲していたのだと思う。

 

例の血が出ているシーンであるが、ユーフォを持たせた久美子が「背徳感がすごい」といった場面からのつながりを考えると、ユーフォという楽器が男性の象徴であるように連想されてしょうがない。これは、処女性の消失という視点に立った場合であるが。

 

私は、久美子=ユーフォという図式、さらに久美子の服装は不恰好なショートパンツにTシャツというものである。かわいらしい、女性的な服装できた久美子とは対照的であるから、そのアンバランスについての突込みであると考えられる。

 

血がでているシーンがアップされている理由は、孤高であり、特別であるということの険しさを表している。つまり、それが他者がしないようなこと、夏祭りで遊ばず登山をし、怪我をすることである。

特別であるということの困難がここに表されている。現にのちの再オーディションの話では、久美子は特別であろうとする困難について、一人称視点で呟くシーンがある。

 

つまり、共同体とは異なった、特別であろうとする生き方は痛みを伴うという困難について表現されていると考えられる。

 

これを踏まえれば、山頂到着時の「当たり前の人の流れに逆らいたい」という麗奈の発言につながる。

 

この後の、「トランペットをやったら特別になれるの?」という問いから、麗奈の「やっぱり久美子は性格悪い」という返しは、特別になれるのか?という久美子の問いが純粋性にあふれる物であって、悪意のない純粋な疑問をなげかけているからだ。

実際、楽器をやり続ければ特別になれると思う人は少ないし、麗奈の様な存在が間近にいれば、わたし達は当たり障りのない回答しかしないだろう。

ここで、久美子の純粋性が特別なものであって、麗奈の純粋性とふれあいを見せ、友情という愛に連結されるのである。

 

「愛を見つけた場所」の愛の表現は、他者、友人への慈しみであり、愛おしく思うことに他ならない。愛の告白は自身にとっての特別な他者への愛おしさの感情表現である。

 

ここに、私は『響け!ユーフォニアム」の愛にあふれた作品からのあたたかさを感じてしまうのだ。