『リズと青い鳥』感想。希美は誰だったのか。

先日、ちょうど池袋に行く用事があったので、友人と『リズと青い鳥」を見てきた。相変わらず池袋は人が多く、仙台の田舎に引っ越した私にとって久しぶりの感覚だった。

 

ところで、「リズ」に関して、あまり人はいないだろうと予想していたが、予想に反して映画館は満席であった。「ユーフォ」はやはり人気なのだなと再認識。

 

さて、感想を述べてみたい。

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今回のメインキャラは、みぞれと希美の2人が中心であって、その他のキャラクターは出番は多くない。ただし、2人のみの関係性でこの物語が集約するとも思いがたい。

 

物語は、高校3年生の2人の話である。高校3年生といえば大学進学やその他の進路を決める重要な時期であろう。私はほぼ遊んでいましたが・・・。

部活を熱心にやっていた人ならわかるだろうが、部活と勉学の両立はやはり難しい。

みぞれの場合は希美が音大に進学することを聞き、自身も音大進学を希望する。

 

この映画の物語は終盤までかなり緩やかに進んでいる印象がある。特に冒頭シーンは冗長とも私には受け取れてしまった。(しかし、もう一度みたら違った感想を抱くのかもしれない。)

物語は童話『リズと青い鳥』の物語をなぞる形で、進行する。この点、みぞれの視点から、童話と自身の物語が重なりを見せる。

みぞれは希美に心酔するあまりに、「希美こそが自身の全て」であると認識している。進路を重ね合わせたり、自身をリズに喩え、「青い鳥」、つまり希美を籠から出すことを出来ないと感じている。ここに、みぞれは自身の存在と希美を重ね合わせている点で、みぞれ=希美の関係性が成り立っている。これは一心同体という関係性ではなく、依存的な関係性である。みぞれ自身の存在する理由が希美と=の関係性になっているということである。

 

しかし、希美は周囲の人間から信頼を集める人間であるが、みぞれ自身はそうではない。第二期では、自身を「根暗」と称しているように、周囲の人間とは大きく距離を離している。今回の物語では、そんなみぞれを慕っている後輩達の様子が描かれているが、おそらくみぞれ自身は何も感じていなかったはずである。

いってしまえば、希美は集団の中の特別な個物であるといってもいい。個個のキャラクターの中の中心、つまりは物語の主体であって、希美によって物語りは出発している。これは、みぞれの視点から解釈できることであるが、依存の対象である希美は当然、みぞれ以外の他者からも依存されるものだと認識しているに違いない。もしこのように感じていないのであれば、麗奈のように自身を希美にとっての特別と思うはずだ。

 

ここにおいて集団の中での希美の存在が意識されてくる。つまり、希美という絶対者の中で動く一個人であるという認識の下で『リズと青い鳥』の物語は進行している。

 

この関係性を解き放つことが物語りの主題であるように私は感じた。つまりは、集団、所謂、人間関係からの開放である。

物語終盤では、関係性は逆転して、希美こそが「リズ」であったことが描かれている。しかし、それは希美の視点から見ての事で、本当の「青い鳥」と「リズ」の関係性はそのままであると私は思う。

つまり、誰しもが「リズ」であり、「青い鳥」なのだ。人間は誰かにとって、自分にとってのこの関係性を維持し続けている。

しかし、この関係性の存在に気づいた二人は、ここから解放され、自己つまり自分自身の目的を自覚し物語りを進める。

つまり、「私」が「私」であるという認識であって、これは他者の存在に依拠するということではないということである。ここに「脱共同体」のテーマが見えてくる。これは私は「ユーフォ」を貫くテーマであると私は思う。

 

京都アニメーションは「けいおん!」で共同体の日常を描き出したが、「ユーフォ」はそのアンチテーゼのように思える。

共同体の中で集団としての1という関係性ではなく、自己自身が独立して存在しているからこそ、他者の存在が色鮮やかに認識され、「人生」は自身の描き出す物語だと自覚する物語こそがこの作品の主題であると思う。

 

略して「リズ」は見事にこのテーマを描いているように思える。私はこの作品を大きく評価したい。

まだまだ書きたいことはたくさんあるが、映画館で号泣してしまい終盤のシーンしか覚えていないため改めてDVDで補完した後、考察の記事を書きたいと思う。