ガールズバンドクライからみる正論の怪物と自己
長らくブログを更新できなかった。
というのも、ブログ主は大学院を卒業し、卒業後は当然アカデミックな職につけることはなく、地方の私立大学、といっても地方も地方、田舎の大学の非常勤講師(2コマ)と家庭教師、そしてIT開発の仕事をしていた。
貧乏暮らしもいいところで毎日不安ではあったのだが、なんとか任期付きの職にありつき、講師としてコマ数も増えた(通年で8コマ)。
だいぶ安定してきてアニメも見られるようになりつつあるから、久しぶりに感想を書きたいと思った次第である。
さて、今回は2024年4月6日 - 6月29日に放映された「ガールズバンドクライ」について、私の感想と若干の考察をまとめたいと思う。
私が同人音楽を2人でながらくやっていることもあって、音楽系のアニメはだいたい見るようにしている。
3D作品の苦手な私でさえ本当に感動した作品である。
話の大まかなないようとしては、浪人生である井芹 仁菜が好きだったインディーズ時代のダイヤモンドダストの河原木 桃香と運命的な出会いを果たし、バンドを結成し、紆余曲折があるという内容である。
このアニメを通した見た後の感想として
リアルすぎる!!!性格がいい意味で人間くさくて悪い!!!
というものであった。
読者諸君には、いやいやkeitaseven7さん待ってくださいよ。みんないい子じゃないですか、とか言われるかもしれない。
しかし、井芹 仁菜の性格がいくら何でも、、、。いやいい意味で。
ということで、ガルクラを見ることを挫折してしまう人がいたとしたら井芹 仁菜への嫌悪感が第一に来ると感じた。
何故そう感じたかを中心的に論じたい。
その理由はまさに井芹仁菜が正論の怪物であり、自己を確立したむきだしの人間だからである。
とかく、井芹 仁菜はとんでもなく自己中心的である。むしろそれが彼女の優れたところである。
井芹 仁菜は自分を虐めていた女子との和解を強制された際には学校の放送室をジャックしてダイヤモンドダストの曲を流す問題行動を起こし遂には父と衝突して高校を中退、1人で上京して予備校に通い大学進学目指していた浪人生である。
井芹 仁菜は物語序盤はいわゆる「コミュ障」な感じで描かれていくがライブを通してかなり我の強さが全面にでてくるようになる。というより、私は井芹 仁菜が成長した、という点については自己表現ができるようになった、まあそれを成長とも捉えられるが、と思っている。
物語序盤から井芹 仁菜はトゲがでる描写が1話時点では、井芹 仁菜が予備校に通うために上京し、家族と電話で会話するシーンなどがそれである。
なんというか・・・まあ・・・
反抗期っぽいよな!?っていう感想は正直あります。
井芹 仁菜の過程は俗にいう過保護的な感じで、家庭内でルールが決められているほどである。例えば、食事は家族全員で、食事中はスマホを見ないなどである。
1話時点では、引っ込み思案ではあるものの仁菜が我を出すシーンがある。つまり、桃香が音楽に対してどのように感じているかという点である。この点に関しては一貫して描かれることになっている。
そして、自分をレッテルによって理解されることにかなり嫌悪感をしてしている。これはトゲナシトゲアリの楽曲の歌詞にもたびたび描写されている。
例えば、1話の劇中歌である「空の箱」もそうである。
サビの部分をみてみよう。
やけに白いんだ やたら長いんだ
コタエはだいたいカタチばかりの常識だろう
指先が震えようとも
正解は無いんだ 負けなんて無いんだ
あたしは生涯 あたしであってそれだけだろう
これ以上かき乱しても明日はない
これはたびたび考察されているが、やけに白い、長い、というのは仁菜が起こした放送室をのっとた事件の反省文のこと、であろう。
反省文の内容はだいたいが決まり文句的なところであるし、指先を怒りで震わせながら仁菜が書いている姿が想像できる。
一方、作詞作曲は桃香であることから、似たような体験をしている可能性は高い。
私が面白く感じるのは「これ以上かき乱しても明日はない」という部分である。これはダイヤモンドダストの曲であり、物語後半でダイダスがライブで演奏している。一方、仁菜がこの曲を知っているからダイダスの中でも看板曲であるのは間違いがない。
桃香はダイダスをやめる際に、「その曲の権利は売った。私の曲じゃない」と1話で話している。ここから想像できるのは、メジャーデビュー前のダイダスにいた桃香のことを表しているようにも見える。つまり「かき乱しても明日はない」というのは、アイドル路線に変更せざるを得なかったダイダスについて、桃花があれこれ意見しても、「明日はない」ということにも筆者には感じられるのである。ある意味でこれは自暴自棄的にすらみえる。
というように考察をしてみたのだが、これを仁菜の絶縁した友人ヒナが歌っているとしたら最悪である。自分を後押ししてくれた世界で一番大切な曲が、最悪な形で演奏されているのだから。
一方、トゲナシトゲアリの楽曲の多くが、「自己」、つまり自分とは何か、という点について歌詞が書かれていることは間違いがない。
2話の段階でかなり引っ込み思案である。仁菜は。
すばるのようないわゆる「陽キャ」的なキャラにかなりの苦手意識があるようだった。
桃香とすばるの会話シーンで、クラスで孤立したシーンを思い浮かべるのは、まさに、自分の生き方が「不器用」であり、それを認識していることに他ならない。
一方、桃花が、すばると仲良くしろとするシーンで、無理に輪の中に入らなくてもいい、誰とも仲良くなれない、一生一人だと思う、と仁菜が答えるのる。一方、他人の気遣いに対して、「不器用」であることへ嫌悪感を示し、涙を流すシーンは他人の好意を受け入れる準備段階を経ているともいえよう。
桃香は2話ラストシーンで、自分を曲げることは絶対に嫌だ、という仁菜の性格を忘れていた大好きな部分だというシーンは非常に印象的である。つまり、2人とも似た者同士なのだ。
3話ではすばると仁菜の関係を気づく物語となるのだが、仲良くされようとこられると、お前の思い通りになりたくないと話す。一見するとかなり性格がこじれている。しかし、これは違う。仁菜は元来、いじめ問題により反省文を書き、加害者と和解するように学校から圧力をかけられる。ともすれば、枠にはめられること、それ自体がトラウマとなっているのである。
3話の劇中歌は「声なき魚」であるが、これは桃香の自己認識の歌詞が書かれる。劇中では1サビまでだが、ラスサビの歌詞は印象深い。
果てしないはずだった夢が壊れる音がした
涙も出ない そろそろちゃんと生きよっか
激しく溺れてたから泳ぎ方がわかんない
どうして今さら悲しい?
本当は誰かみたいに
幸せになりたかった
ここでの考察は最低限にとどめたい。これは桃香がダイヤモンドダストから脱退した自身の心象風景である。
インディーズからメジャーデビュー目前までいったダイダス。しかしアイドル化路線へ舵を切ることになり、桃花は脱退する。
果てしない夢は壊れ、バンドをやめたことで田舎に帰り生活しようとする。しかし、バンドだけしていた桃香にとって、何によって生きればいいのかはわからない。失ったものの大きさに悲しんでいるわけである。
私は「幸せになりたかった」という桃香の諦めともとれる吐露に胸が締め付けられた。
言わば、これはギタリスト桃香の遺書なのだ。
続く4話は、すばるのパーソナルなことが描かれる。
祖母の七光りで役者になるかどうか苦悩するシーンがある。
非常に印象的なのは、「私が役者になりたいっていうと(おばあちゃんは)笑うんだよね。」というシーンである。
これもある種、仁菜と同じく、型にはめられる苦悩がみられる。ラストシーン、仁菜が祖母の話を聞き、すばるが役者を目指すことがうれしい、と話しているときにトゲがでているのはまさにそれが描かれている。しかし、このトゲはすばると祖母の関係性が今は壊れてほしくないという苦悩のトゲでもある。
非常に重要なのはスタジオ練習のシーンのすばるのことばである。
あーやだやだやだ
バンドやめるなって言われたから覚悟きめたのに、直前になって手のひら返す正論モンスター(仁菜)も、それを訳知り顔で(略)
何故、正論モンスターなのだろうか。すばるはバンドをしたいと思ったと話していたし、仁菜もそれを望んでいた。正論を言おうとしているのはあきらかにすばるである。
私はこの「正論モンスター」に強烈な違和感があった。
いや・・・・。正論なのはすばるちゃんじゃないの・・・?
これは話数がすすむとわかるのだが、この「正論モンスター」の正論は、仁菜にとっての正論を意味していると思う。
しかし、私はすばるちゃんがいい子過ぎて何度も泣きそうになった。このドラマ―が野良でいたことが驚きである。
さて5話であるが、絶縁した友人がダイダスのボーカルとなっていた。
仁菜と桃香は居酒屋で大喧嘩するのであるが、私が好きだったダイダスが正しい、今のダイダスを桃香に否定してほしいと語る仁菜はなんともわがままである。
しかしこれは、自身と桃香を一体的にとらえている仁菜の意識を示している。つまり、ある種崇拝と呼べるほど桃香に憧れた仁菜は、自身と同じようにダイダスを否定してほしかったのだ。
仁菜が大泣きし、桃花がそれをバカとったときに、「バカですよ・・・」といったのは、自分のしていることが「バカ」であるということに自覚的なのである。
このいわゆる、うまく生きる、ということも大事であるとは感じているのである。
閑話休題
しかし、トゲトゲの曲はどう考えても難しい。ボーカルラインも飛びまくるし、カラオケで歌ってみたけど舌がまわらないんじゃ・・・。
あとすばるちゃんは「素人2人」とかいってるけど、すばるちゃん、あんたドラムうますぎるでしょ
「名もなき何もかも」なんて女子高生は叩けませんよ・・・。
―――
次に6話だが、智とルパの加入の話である。
一方、どうすればメジャーデビューできるかどうかを仁菜が真剣に悩む回でもある。
言ってしまえば仁菜は桃香の言う通り、絶縁した友人への対抗心からメジャーを目指すかのようなそぶりを見せている。勝手な事情を持ち込むな、というのはそういうことだ。
智、ルパのコンビが加入すること、武道館を目指すこと、それはプロを目指すということであるが、ここでも正論モンスターが登場する。
桃香を説得するために、すばるはある意味で2人の加入をうまく話せという。メジャーの話などを話さず、とりあえず音を合わせようと提案するすばる。それを「嘘つき」と仁菜は言う。
仁菜にとっての正論とは、自分の感じたこと思ったことを直截に、ありのままで、素直に、相手に伝える事なのである。つまり作中における、すばるのいう「正論モンスター」とは、正論の怪物、暴力的にまっすぐな仁菜そのものなのである。
7話冒頭、興味深い。すばる「桃香さんってなにかって仁菜に嫌味いってくるよね。」
後の話をみれば、仁菜は大好きだった私だ、ということと大人になった自分の板挟みにあっているのだと推測できる。つまり、過去の自分と大人になった自分を仁菜を通して対話しているのである。だからこそ、桃花は「そんなに甘くない」というように嫌味をいううのではないだろうか。
7話のプロでは通用しないと自身の楽曲について述べ、バンドから脱退するといった桃香の吐露はまさにそのことを示している。
人生で一番感動した歌があるんです。なんか、背中をぐっと押されたんです。
だから、その歌が間違っていないって証明したいんです。その歌で人の心を動かして、どうだ、すごいだろって言いたいんです。すばるちゃんとルパさんと智ちゃんと桃香さんと。みんなきっと似たようなこと思ってるんです。
だから本気で頑張ってるんです。怖いけど。信じて頑張ってるんです。
ここに仁菜の心の絶対的な信念、信仰とも呼べる心情が明かされる。
まさに7話は仁菜の自己が確立的な象徴的な回なのだ。
桃香の楽曲、それに突き動かされた自身の心。それが万人に通じる。
自己の心の大きな揺れ、それこそが仁菜の絶対的な自己だといっていい。
ここに仁菜という人間は作中から一貫して自己中心的な人物であることがいえてくるのだ。
ガールズバンドクライはその仁菜の心、まさに自己の確立に焦点化したアニメだったのである。それこそが「正論モンスター」であり、ロッカーなのだ。
私はこの一人の少女の絶対的な信頼、エマソン流にいえばself-reliance 自己信頼に他ならないと思う。「自分自身にこだわるのだ。 ゆめゆめ模倣などしてはならない。」
8話へ。もう咽び泣くくらい泣きに泣いた。どうしようもないくらい泣いた。
後半の怒涛の展開でもう号泣した。
桃香のダイダス脱退の騒動の顛末が語られる。
そして、桃香は話す。
仁菜にあたしと同じ選択をさせたくない。何で田舎に帰らなかったのか、バンドを始めたのかって聞いたよな。あの時(一話)仁菜が歌ってるのを見て、自分が最初に歌っている姿を思い出したんだ。仁菜は売れたいとか、認められたいとかじゃなく、好きな歌をただ歌っていた。あの時の仁菜はあたしが好きだったあたしなんだ。あの頃のあたしなんだよ。だから、仁菜には歌い続けてほしかったんだ。何にも縛られず、横でその歌を聞いていたかったんだ。
非常に興味深いのは、この時点で桃香は仁菜と過去の自分を同一視していたと語っている。つまり、居酒屋で大喧嘩した時は、仁菜は桃香を心情を共有する人物として見做していたが、7話の自己確立以降、むしろそれは桃香だったという逆転的な現象がこの話でみられる。
プロ、というある意味の色気、それに桃香は全く価値を見出すことはできなかったのである。
わたしの気持ちはどうなるんですか?
私はあなたの思い出じゃない。私をあなたの思い出に閉じ込めないでください。
指先が震えようとも・・・。あなたの歌で生きようと思った人間もいるんです・・・。
あなたが守らなきゃいけないのは思い出の中のあなたじゃない。
自分の歌を誰かに届けたいという気持ちです。自分の思いを、喜びを、怒りを、悲しさを誰かに届けたいからバンドを始めたんですよね?学園祭で歌って、東京に出てきたんですよね。プロになったんですよね?
なに怖がってるんですか。なにびびってるんですか。
ここにいるんですよ。あなたに勇気づけられ、元気をもらい、あなたがいたから飛べた人間が。あなたと一緒に歌うことを幸せに感じて。賭けようと思っている人間が。
あなたを信じている・・・。あなたの歌が・・・。
桃香さん・・・。私で逃げるな・・・。
胸が苦しいくらいに泣いてしまった。
ここで重要であったのは、自己の確立以降、完全に仁菜は桃香を切り離し、桃花に過去の決別を迫っている点である。
正論の怪物である。まさにむき出しの対話。
我々はあることに、人間関係を構築する際、忖度やいろいろな感情をめまぐるわせる。しかし、言語というのは実在そのものを表してはいない。できない。
だが、それを直截にむきだしのままに、表現する仁菜。それこそが怪物であって自己を確立したひとりの人間なのである。
桃香さんが好きです。
(なんだそりゃ・・・)
決まってるじゃないですか。告白です。
そのことはまさに仁菜のこの言葉で象徴されている。
仁菜=桃香
この構図はもろくも8話で崩された。
それは一人の少女、井芹仁菜という怪物によって達成されたのである。
「告白」とは自らの内面をさらけ出すことである。恋愛的な意味ではない。
過去の自分=仁菜とみていた桃香。
むきだし、ありのままの会話を経て、桃花はその楔から解放された。
解放された桃香に対する告白なのである。
これまであったすべてのことをある意味で受け入れる、肯定する。
そのことを仁菜は「好き」と表現したのだ。
だからこそ、桃花はダイダスの挫折と、大人になったある意味で諦念ともとれる投げやりな態度、人間としての自己を受け入れてくれた仁菜の告白に涙したのである。
ここにしがらみも何もかも取り繕いのない、人間同士の会話、それによる相互関係の構築がなされるのであろう。
すばるの称した「正論モンスター」
それはまさに自己への信頼と確立者としての怪物だったのだ。
自分の自己と向き合い、他者とありのままに向き合う井芹仁菜。
私はこの一人のボーカリスト、人間を尊敬している。いや、
尊敬しなければならないのである。
映画感想 『凶悪』 本当の凶悪とは?
『凶悪」はに上映された、「上申書殺人事件」を題材にした映画である。
映画の全体的な雰囲気は陰鬱そのものでただただ暗い。暴力的なシーンの苦手な方は気分が悪くなるほどだと思う。
この映画はピエール瀧が演じる須藤が、新聞社の記者である山田孝之、藤井に自身が起こした事件の真犯人について告発を依頼することから始まる。
真犯人である木村は須藤や周囲の人物から「先生」と呼ばれる不動産ブローカーであり、老人に保険金をかけ、殺人の依頼を受けることにより大金を獲得していた。
この須藤、木村の起こす行動は凶悪そのものであり、躊躇なく殺人を起こしていく。特に会社経営者であった老人、牛馬を殺害するシーンは狂気の中にシュールな笑いすら感じ取れる異様なシーンが印象に残る。
木村が語るように、善悪はどうでもよく、金という欲望のみに従い行動を起こしているのが特徴である。須藤も木村も快楽的に殺人を起こしているわけではなく、欲の衝動が付随的に殺人という快楽をもたらしているだけで、殺人が主な目的ではない。
藤井の狂気ともいえる取材によって事件の全貌が明かされ、須藤は死刑となり、木村は無期懲役となった。
しかし、藤井は決して正義のヒーローではない。というのも、藤井の母はおそらく認知症を患っており、藤井の妻に暴力をふるっており、家庭は崩壊している。この藤井の取材と家庭、木村と須藤のエピソードの対比がカタルシスを感じるのだ。
最終的に須藤は獄中でキリスト教に入信し回心した素振りを見せ始める。そして、木村が事件に関わっていたことを記者に告発したことは、自身の死刑を円了する為だったと法廷で述べる。藤井は自身が利用されていたことを自覚し、法廷で須藤に死ぬように訴える。
後、木村と藤井は面会する。このラストシーンで本当に人を殺したがっていたのは、木村でも須藤でもなく、藤井自身であったことが示唆され、物語は終演する。
確かに、家庭を顧みずに、木村、須藤を死刑にしようと試みる藤井は狂気的であったといえるし、須藤木村を追い詰める藤井は取材を通じて、死刑を望むようになっているように見えなくもない。
とすれば、物語の核は、人間の持つ暴力的な欲求である「凶悪」そのものを描いているようにも見え、本当に「凶悪」だった人物は藤井であると思われる構造になっている。
しかし、一方本当に凶悪な人物は須藤だと思う。須藤は劇中、凡そ理知的な人物であるとは考えられないような行動を常にとっていた。しかし、前に述べたように、藤井を利用し、自身の死刑を延長し、生に執着する狡猾な人物であったことが予測される。
これは、藤井との取材の中でも確認できる。というのも、藤井との取材の最中、情報を思い出したかのように小出しにしているのである。実際は事件の詳細を覚えているが、わざと藤井に小出しに情報を出しているのであろう。さらに言えば、劇中の暴力的なシーンは、藤井の妄想であったかのような描写もある。これは、事件現場に藤井が訪れた際、藤井が幻視するシーンがあることから予測できる。
よって、須藤が理知的でないという描写そのものが疑わしい。
実際に木村すら須藤に踊らされていたのではないだろうか。つまり、人間の「凶悪」を描いた本作品で本当に「凶悪」だった人物は須藤だったと思う。
いずれにせよ、役者の演技が光る名作だと私は思う。
興味を持った方はぜひ一度見てほしい。
『劇場版 響け!ユーフォニアム~誓いのフィナーレ~』、視聴後の評価と感想(1回目)
誓いのフィナーレが公開されたので早速見てきた。
仙台ではmovixでしか上映されていなく、電車で長町南まで。案外映画館まで歩いた気がする。客入りはなかなかのもので21:20開始であったか8割ほど埋まっていた。
さてネタバレを含むためまだ見たい無い方はブラウザバック推奨である。
今回の映画であるが、ツイッター等を見るに評価している人たちが大半ではないかと思う。私自身、映画は確かに面白かった。しかし、今回が最終章であるか、否か、ということで評価は大幅に変わるのではないかと思う。
映画のクレジット後、久美子が部長になったことで映画は終了する。視聴者は当然、続編を考えるっであろうが、本当に続編が製作され得るのであろうか。
というのは、「フィナーレ」という副題にもあるように今回が最終話であるとしても問題はないという点にある。
もちろん、今後の伏線は膨大にあると思う。まずは、私が続編があると仮定した場合の目につく限りの伏線を列挙してみたい。
・久美子と修一の恋愛の可能性、関係性の発展
・久美子と麗奈の関係性の終着点
・麗奈と滝先生の関係性の終着点
・葉月がコンクールメンバー選定され得る可能性
・それぞれの進路
・部長、副部長の関係性(これは原作で補完されている。)
・滝先生の悲願である全国金賞、部員の目標となった全国金賞の未達成
・求の父親との間で起こっていること。
・あすかの招待券、ひまわり畑はなんだったのか。
このあたりではないであろうか。実際、まだ伏線はあると思う。
しかし、これらの可能性は物語として置き去りにしたままでも問題はない。
今作はその形態に近いと思われる。というのも今回の主題は久美子の成長がテーマにあると私は考えるからである。
奏はむしろ、久美子の成長を考える上での媒介であると考えてもいいと思う。このあたりはもう一度考えたい。
では、大きな問題は何かというと、それは持続するということではないであろうか。音楽を続ける、つまり持続性は大きなテーマにあると思う。
実際に奏を久美子が説得するシーン、この持続が問題になっている。
続けて何か意味があるかどうかわからないという久美子の意識は、自己の存在がユーフォと一体化していることである。
麗奈の場合、プロの演奏者になり、自身の生きた演奏を他人に届けることがある意味で目標となり、自己の存在意義となっている。ここに於いて、その純粋性を垣間見ることが出来るのであるが、久美子はより純粋である。
一期で姉にそんなに音大に行くわけではないのに音楽続けて何か意味があるの?という問いに、久美子はユーフォが好きだからという理由で答える。
これが今作まで引き継がれていると思う。久美子はむしろ、自身の好きという感情のみが音楽を持続させる理由となっているのである。
これは麗奈と同じように思うが、ベクトルの方向が少し異なると思う。
自身の存在こそが久美子の場合はユーフォなのである。そこには結果やその他の事は全く問題ではない。それが好きという自己の意識こそがユーフォを続けるということが今作で確立されたと言って良い。
二期に印象深い、あすかを部活に戻るように説得するシーンで久美子は「諦めるのは最後までいっぱい頑張ってからにしてください!」と言うのはまさしく、自己の音楽の持続意識から来ているのではないであろうか。
ここで問題にしたいのは、歴代の部員はこの持続を行っているのであろうか。というのも香織やあすかが音楽を続けている雰囲気がどこにも見られないからである。
もしかすれば続けている可能性があるが、私は映画をみてこの感覚は全くなかった。むしろ、あすかの場合、父親と会うということが音楽を持続させる目的だったように、それが完了すればその意味はなくなってしまうのである。
麗奈や久美子はこの目的が果てしなく遠い。デカリボン・優子や夏妃は金賞という目標が一端の終わりを遂げたことにより、持続はないと思う。
久美子はこの目的の終焉から大きく離れると思う。持続することこそ、実際には全く意味がないと思えても自身の経験にとって深い意味をもたらすのである。
これは麗奈が中学に経験し、奏が今作で経験することになる。つまり、持続することによってしかわかり得ない貴重な深い経験を獲得し、自己をより一層深いものとすることである。久美子が本作で自信に満ち、自身で問題を解決し、部長に任されたのもこのためである。
つまり、フィナーレとは久美子自身の人格をより一層明確化し、人間として大きな進歩を遂げたという意味ではないかと考える。
今作はこの意味で成功していると言えるであろう。
しかし、ユーフォの物語自体これで完結し得ないのは当然であってトータルバランス的にはすこし悪いと言わざるを得ない。
2,3回見ればこの感想は大きく変わりそうな気がするので、又見に行きたい。
PS
麗奈がものすごくかわいかったです。特に大吉山のシーンでは一期で適当な格好であった久美子が、修一のために女の子らしい恰好をしたことに落胆気味な麗奈には本当ににやけてしまいました。
でもなんだかんだ修一の相談に乗ろうとする麗奈はかわいいなあ、と我が子のように見てしまいました。
麗奈と久美子の関係性はきっと続いていくと思います。きっとリズと青い鳥を二人は乗り越えるでしょう。
再び『リズと青い鳥』を論じる。disJointからJointへ。みぞれとのぞみの関係性への考察
DVD発売を記念して再び『リズと青い鳥』を論じてみたい。
これを論じるにあたって「錬金術師の隠れ家」さんの考察記事は非常に刺激になった。
やはりこの映画の大きな焦点は、希美とみぞれの関係性に尽きるのではないかと思う。
しかし、重要なのはその関係性と対比的に麗奈と久美子が演奏する場面が描かれている点である。
私は「聲の形」に関しては視聴していないが、色々な記事を読む限り、山田監督はある登場キャラクターに焦点を絞り、スポットの当たらないキャラクターは物語から於いていかれる傾向があるらしい。
このように考えれば二人の演奏シーンが取り上げられたのも偶然ではないであろう。
さて、所謂コミュニティの中で特別な一員として日常を過ごす希美であるが、見返すとどこか周囲に合わせているような表情をしている。
特に序盤で同じ演奏パートの後輩が「かわいい、かわいい」と連呼するシーンなど、我々が学校というコミュニティの現場でよく目の当たりにしたものではないであろうか。この輪の中心人物は希美であり「特別」な存在としてみることが出来る。
しかし、物語が進むにつれて「特別」な存在はみぞれであることが明かされるのである。
みぞれは普通の人間である希美をかけがえのない大切な存在、青い鳥として認識している。
前回論じたように、それぞれの関係性は実際は、リズであり青い鳥であるという考え自体は変わっていないが、両者が今後に導かれる展開について考えてみたいと思う。
私は、希美は、ありきたりな高校生のコミュニティから挫折により、特別でないことを自覚し、アインデンティティを獲得する物語であると考えている。それぞれが自立した人間であるため、この両者の関係性はどのような結果をもたらすのか、少し考えてみたい。
希美は前に述べたように、一見特別な存在であるように所見は感じるが実際はそうではない。生来のコミュニティ能力により、年長の希美は存在感を持っているにすぎないと私は思う。
つまり、映画序盤から中盤の段階では希美はみぞれが、特別な自身へと随順する関係性だと思っているはずである。でなければ、リズと青い鳥が自分たちに似てるとは言わないであろう。
そして決め台詞は「やっぱりハッピーエンドがいいよ。」
これはどのように解釈すべきであろうか。希美の優しさからこうした発言がでたのであろうか。私はそうは感じない。自身を青い鳥だと認識する希美は、その存在の特別さを幻視し、のぞみの元へ戻って来ることができることを確信しているが故のセリフではないであろうか。
というより、物語の全体的に両者のセリフがかみ合っていないようにどうしても感じてしまうのである。この齟齬はどこから生じているのであろうか。
それは希美の自意識によるものではないかと私は考えている。
みぞれを置き去りに部活を辞めたり、希美に対して私は良い印象を持っていない。(これに関しては理由はあるが)
つまり、その天真爛漫で、無垢であり、人たらしな希美の性格はある意味でみぞれを自身に接近するしかない儚い存在と思っている。でなければ、ふぐに餌をやり、音大を受けることをのぞみが告白するシーンで、みぞれに対してリズみたいとは言わないであろう。このように考えれば、自身から自立して音大に進むことを勧められ受けようとするみぞれに対して動揺したことは当然であると言える。希美の中のみぞれは、どこまでも青い鳥の餌をやり続ける存在なのだから。
何が言いたいかと言えば、常に共同体の中心人物、「特別」な存在だと自己認識している事が由来し、青い鳥だと思い込んでいたのではないであろうか。
2年生4人でピアノを囲むシーンで「希美が受けるから」といったシーンに対してジョークと言うのは、どこか後ろめたさを感じていたからであろう。
私は希美はみぞれという存在を媒介として自己の本質を確認するための存在として必要であったのではないかと考えている。
これらの理由で第2期で田中あすかが久美子に二人の関係性について述べたことは、遠からず当たっていると思う。
つまり、この時点の希美の「ハッピーエンド」は解き放たれた自分自身は、のぞみの元にいつでも帰還できるという自己の認識から由来する「ハッピーエンド」なのである。
こうした関係性は如何にもリアルなように私は感じられる。私は大学を卒業した時常に思ったのが、あれほど仲が良かったであろう共同体は卒業した瞬間からいつの間にかどこかに消え去っていたり、いきなり疎遠になったり。
非常にリアルである。私はどこかで繋がっているように「感じる」だけで実際は繋がっていたりしないのである。自己の欺瞞からなる二人の関係性の延命をしている、いや、してすらいない幻想を追いかけているだけである。
しかし、みぞれはそう思ってはいなかったと思う。かけがえのない友人として希美を思っていたと思う。根暗と自ら称すように、内向的なみぞれに音楽の道へと誘い新たな道を切り開いてくれたのは、希美であるから。
重要なシーンは、新山先生に音大を志望する事を希美が相談するシーンである。
おそらく希美は新山に「そう!あなたならきっと行けるわ!音大に進んだほうが良い!」と激励されると感じていたはずである。
新山から告げられた言葉は、いかにもとってつけたような、「そう。頑張ってくださいね。」程度のものであり、その顔に映し出される心象はほの暗い。
つまり、挫折の一歩目はここにある。のぞみの「大好きのハグ」を拒絶した訳は、新山先生に激励されなかったこと、一方みぞれは激励されていた、という構図に原因がある。つまり、青い鳥である希美は、リズであるみぞれとは違う、特別な存在だと自ら暴露していることに他ならないのではないであろうか。
麗奈と久美子の演奏シーンは実にこの両者の関係性と対象的である。麗奈にとって必要である友人である久美子は、麗奈に焦がれ、音楽が好きであることに目覚める。純粋な目標としての麗奈、その関係性がどこまでも対等であり、必要な人間であるとお互いが感じているからこそ、強気な「リズ」を演奏することができるのである。
ここで関係性は逆転し、希美はみぞれを解き放つことによって、音楽の世界へと導いた誇りを自覚するのである。
演奏シーンでは解き放たれたみぞれの演奏力が発揮される。
ラストの二人の対話シーンは何とも、希美は投げやりである。
「対等になれると思った。」「みぞれは才能あるからさ。」「音大に行くって言えばそれなりに見えるかなった思った。」
しかし、はじめからそうは考えていなかったと思う。
みぞれが希美がかけがえのない存在だと告げるシーンで
「そんな大げさなこと言わないでよ。ずるいよ。私、みぞれは思っているような人間じゃないよ。むしろ軽蔑されるべき。」
というのはこれまでの自己認識に起因している。
「大好きのハグ」のシーンで声優の東山奈央はこんなコメントを残している
東山奈央:未来に向かって進むことを選んだので、希美も前進はできていると思います。ただ、その清々しさって普通のものではないんですね。大好きなみぞれが、無口なみぞれが、言葉を尽くして希美のいいところをあげてくれても、そこに自分が大切にしていたフルートのことは入っていないんですよ。だから笑うしかない。「ありがとう」と告げるシーンも心からの感謝ではなくて、「もう結構です」という意味も込められているんです。だから、希美はあきらめつつ、前進を選んだという感じなのかなと思っています。(超!アニメディア: https://cho-animedia.jp/special/41881/ 、2018.05.14アクセス)
つまり、音楽では決して対等ではなかったのであろう。これが両者のすれ違いの原因であり、私の感じた齟齬の原因である。この関係性は以下のようになるのではないか
みぞれ→希美の人間性に愛を持っている。
希美→みぞれの人間性ではなく、音楽性に愛を持っている。
両者は出会った段階ですれ違っていたのだ。希美が、みぞれの音楽が好きなことは2期でもあるように純粋なものであるであろう。つまり、自身が親しみを持っていたモノとは異なるモノを愛していたみぞれに対する笑いである。それは諦めでもあるし、悲しみでもあると思う。この図式を自覚することによって今までの希美の自己認識は、挫折、というよりかは根本的なすれ違いとして消化「した」のではないであろうか。
ラストシーンのみぞれの「ありがとう。」はいつも通りの関係性には戻っているが何故かわからないゆえの疑問形であろう。
希美はみぞれがオーボエを続けることによって、自身の音楽の夢を乗せるのである。
以上によってdisjointはdisを消化しjointするのである。
さて問題はこの関係性は友人として本当に消化され得るのであるか、という疑問である。何回か見返すても、この関係性への気づきは希美の側からしか起こっていない。つまり、みぞれは無自覚なまま人の夢を破壊し、その屍の上に立つしかない、という状況が続くのではないか。
ユーフォは一貫して脱共同体をテーマに掲げているし、友人という関係性は依然ではなく、こうした自覚のプロセスにより自身のアイデンティティーを獲得し、生きるという大人への階段を上るのである。つまるところ、この物語はみぞれより、希美の挫折と再生、大人へのプロセスにあるのではないかと考える。
PS
だいぶ長くなってしまい大変申し訳ないです。しかし、次回の映画が楽しみです。
リズの久美子はいい感じに性格悪そうな作画で大満足です!
『響け!ユーフォニアム』第6話 大吉山についての考察
先日、「リズ」を見てきた私はもう一度作品を見返したいと思った。
「ユーフォ」に関して多少なりとも考察ブログをチェックしている私は興味深い記事を見かけた。本稿でそのブログを紹介するというわけではないが、あがた祭りの大吉山のシーンを視聴者がどのように捉えていたかは非常に気になっている。
そのブログでは、麗奈の処女性の消失がメタファーとなってる考察がされていた。
確かにそういった考察は出来るが、これは所謂、性の問題への連結を感じざるを得ない。確かに、萌え的な要素はこのアニメに不可欠な概念であるし、表面的には百合的な要素を含んでいる。しかし、こういった表面的な要素は、物語の本質ではなく、商業的な見せ方に過ぎないと思われる。
もし、京都アニメーションが、大吉山に純白のワンピースで来た麗奈が、足の痛み、つまりは血、処女の消失と捉えられる様に描いたとすれば、それは物語の表現に関する欠陥とさえ私には思われる。
つまり、前述のメタファーが麗奈の処女性と直結して描かれているとする見方には、私は賛同できない。これには、以下のような理由がある。
1、もし、麗奈の処女性の消失と描いた場合、それは京都アニメーションの失策
としか思えない。何故なら、これは物語のテーマとは異なるものであるからで
ある。
2、処女性の問題は性の問題へと連結されるからである。百合的な萌え要素
はあくまで商業的な見せ方であって、それは物語の本質ではない。久美子とと
もに描かれるシーンで、性的なメタファーを暗喩することは物語の根幹を壊し
かねない。
というのが私の見解である。これまで私はブログで、脱共同体のテーマがこのアニメの根幹にあるということを論じてきた次第である。もちろん、こうした見方が正しい保障は全くないし、この主張を押し付けるものではない。前述にあげた処女性のメタファーとして受け取るというのも決して間違いだとは言い切れないだろう。
しかし、こうした所謂エロ要素は「ユーフォ」ではある意味、こちら側に恥ずかしさを感じさせるくらいに露骨な描写が多い。ならば、大吉山のシーンでわざわざこのようなメタファーとして描く必要よりもっと直接的な表現で描かれてもよかったのではないだろうか?
こうした考えはあくまで推測しか出来ないが、私はどうもこの作品に性的なメタファーがあるようには思いたくない、というのが本音である。
大吉山のシーンは久美子と麗奈の関係性を考察する上で重要なシーンであるし、私もよく考えてみたい。
では、あのシーンは何を描いたのだろうか?
純白のワンピースや靴擦れの意味は何か?という問いに繋がっていく。
振り返って考えてみよう。麗奈の性質は、孤高であり、他者と違った特別を求めている。そして、友人も特にいるような様子もなく、トランペットを続けるほど特別に近づくと考えている。この前提を踏まえたい。
純白のドレスはこうした麗奈の特性を象徴するものであって、処女性というよりかは、純粋無垢に特別でありたいをいう目標を持っている麗奈の性格を反映しているに過ぎない。
この後の問いにある
久美子「こういうことよくするの?」
麗奈 「こういうことって?」
久美子「いきなり山に登ったりとか。」
麗奈 「私を何だと思っているの?するわけないでしょ。」
「でも、たまにこういうことしたくなるの。(中略)そういうの全部捨てて
十八切符でどこか旅立ちたくなる。」
久美子「それはちょっとわかる気がする。」
という場面が印象的だと思う。久美子は明らかに、麗奈の意見に対して同意する主張をしている。つまり、麗奈という孤高の天才的存在は、同意できるような他者を欲していたことがわかる。実際、麗奈には久美子は必要な存在であったようにアニメでは描かれている。
しかし、麗奈の言う「特別」は他人と同じではない、自身のアイデンティティーを保持するものである。一般的な部活のような共同体で均質化した、友人関係の中では排他されるべき思想であり、共同体を持つ存在からは共感を持たれないだろう。
そこで、どこか冷めた久美子の存在を求め、こうした自身の考えを共感できる友人を欲していたことがこのシーンに表れている。
続くシーンで、
久美子「ずいぶんスケール小さくなったね。」
麗奈 「それはしかたない、明日学校だし。」
という会話である。このシーンでは麗奈の一般的な思考から離れきっていないことがわかる。つまり、友人を欲しがっていたこともここにある。
孤高であり、天才である麗奈は、一般的な女子高生とは全く異なっているが、一般的な女子高生的性質を取り残している。よって、共感できる久美子という存在、友人を欲していたのだと思う。
例の血が出ているシーンであるが、ユーフォを持たせた久美子が「背徳感がすごい」といった場面からのつながりを考えると、ユーフォという楽器が男性の象徴であるように連想されてしょうがない。これは、処女性の消失という視点に立った場合であるが。
私は、久美子=ユーフォという図式、さらに久美子の服装は不恰好なショートパンツにTシャツというものである。かわいらしい、女性的な服装できた久美子とは対照的であるから、そのアンバランスについての突込みであると考えられる。
血がでているシーンがアップされている理由は、孤高であり、特別であるということの険しさを表している。つまり、それが他者がしないようなこと、夏祭りで遊ばず登山をし、怪我をすることである。
特別であるということの困難がここに表されている。現にのちの再オーディションの話では、久美子は特別であろうとする困難について、一人称視点で呟くシーンがある。
つまり、共同体とは異なった、特別であろうとする生き方は痛みを伴うという困難について表現されていると考えられる。
これを踏まえれば、山頂到着時の「当たり前の人の流れに逆らいたい」という麗奈の発言につながる。
この後の、「トランペットをやったら特別になれるの?」という問いから、麗奈の「やっぱり久美子は性格悪い」という返しは、特別になれるのか?という久美子の問いが純粋性にあふれる物であって、悪意のない純粋な疑問をなげかけているからだ。
実際、楽器をやり続ければ特別になれると思う人は少ないし、麗奈の様な存在が間近にいれば、わたし達は当たり障りのない回答しかしないだろう。
ここで、久美子の純粋性が特別なものであって、麗奈の純粋性とふれあいを見せ、友情という愛に連結されるのである。
「愛を見つけた場所」の愛の表現は、他者、友人への慈しみであり、愛おしく思うことに他ならない。愛の告白は自身にとっての特別な他者への愛おしさの感情表現である。
ここに、私は『響け!ユーフォニアム」の愛にあふれた作品からのあたたかさを感じてしまうのだ。
『リズと青い鳥』感想。希美は誰だったのか。
先日、ちょうど池袋に行く用事があったので、友人と『リズと青い鳥」を見てきた。相変わらず池袋は人が多く、仙台の田舎に引っ越した私にとって久しぶりの感覚だった。
ところで、「リズ」に関して、あまり人はいないだろうと予想していたが、予想に反して映画館は満席であった。「ユーフォ」はやはり人気なのだなと再認識。
さて、感想を述べてみたい。
ネタバレを避けたい方はブラウザバックを推奨する。
今回のメインキャラは、みぞれと希美の2人が中心であって、その他のキャラクターは出番は多くない。ただし、2人のみの関係性でこの物語が集約するとも思いがたい。
物語は、高校3年生の2人の話である。高校3年生といえば大学進学やその他の進路を決める重要な時期であろう。私はほぼ遊んでいましたが・・・。
部活を熱心にやっていた人ならわかるだろうが、部活と勉学の両立はやはり難しい。
みぞれの場合は希美が音大に進学することを聞き、自身も音大進学を希望する。
この映画の物語は終盤までかなり緩やかに進んでいる印象がある。特に冒頭シーンは冗長とも私には受け取れてしまった。(しかし、もう一度みたら違った感想を抱くのかもしれない。)
物語は童話『リズと青い鳥』の物語をなぞる形で、進行する。この点、みぞれの視点から、童話と自身の物語が重なりを見せる。
みぞれは希美に心酔するあまりに、「希美こそが自身の全て」であると認識している。進路を重ね合わせたり、自身をリズに喩え、「青い鳥」、つまり希美を籠から出すことを出来ないと感じている。ここに、みぞれは自身の存在と希美を重ね合わせている点で、みぞれ=希美の関係性が成り立っている。これは一心同体という関係性ではなく、依存的な関係性である。みぞれ自身の存在する理由が希美と=の関係性になっているということである。
しかし、希美は周囲の人間から信頼を集める人間であるが、みぞれ自身はそうではない。第二期では、自身を「根暗」と称しているように、周囲の人間とは大きく距離を離している。今回の物語では、そんなみぞれを慕っている後輩達の様子が描かれているが、おそらくみぞれ自身は何も感じていなかったはずである。
いってしまえば、希美は集団の中の特別な個物であるといってもいい。個個のキャラクターの中の中心、つまりは物語の主体であって、希美によって物語りは出発している。これは、みぞれの視点から解釈できることであるが、依存の対象である希美は当然、みぞれ以外の他者からも依存されるものだと認識しているに違いない。もしこのように感じていないのであれば、麗奈のように自身を希美にとっての特別と思うはずだ。
ここにおいて集団の中での希美の存在が意識されてくる。つまり、希美という絶対者の中で動く一個人であるという認識の下で『リズと青い鳥』の物語は進行している。
この関係性を解き放つことが物語りの主題であるように私は感じた。つまりは、集団、所謂、人間関係からの開放である。
物語終盤では、関係性は逆転して、希美こそが「リズ」であったことが描かれている。しかし、それは希美の視点から見ての事で、本当の「青い鳥」と「リズ」の関係性はそのままであると私は思う。
つまり、誰しもが「リズ」であり、「青い鳥」なのだ。人間は誰かにとって、自分にとってのこの関係性を維持し続けている。
しかし、この関係性の存在に気づいた二人は、ここから解放され、自己つまり自分自身の目的を自覚し物語りを進める。
つまり、「私」が「私」であるという認識であって、これは他者の存在に依拠するということではないということである。ここに「脱共同体」のテーマが見えてくる。これは私は「ユーフォ」を貫くテーマであると私は思う。
京都アニメーションは「けいおん!」で共同体の日常を描き出したが、「ユーフォ」はそのアンチテーゼのように思える。
共同体の中で集団としての1という関係性ではなく、自己自身が独立して存在しているからこそ、他者の存在が色鮮やかに認識され、「人生」は自身の描き出す物語だと自覚する物語こそがこの作品の主題であると思う。
略して「リズ」は見事にこのテーマを描いているように思える。私はこの作品を大きく評価したい。
まだまだ書きたいことはたくさんあるが、映画館で号泣してしまい終盤のシーンしか覚えていないため改めてDVDで補完した後、考察の記事を書きたいと思う。
「響け! ユーフォニアム」の考察 -田中あすかは何者だったのか?-
アニメ「響け! ユーフォニアム」といえば、武田綾乃の原作を京都アニメーションがアニメ化したことは、今日では広く知られている。このアニメは言ってしまえば、青春アニメであり、等身大の高校生達の悩みをよく描いた作品だと私は思う。もちろん、この作品は原作ありきで、それをなぞる様に作られている(恥ずかしながら私は原作未読である。)。このアニメに考察する余地があるのかどうか非常に微妙なところであるが、このブログで私の愚見の一端を示してみたい。
副題にもあるとおり、登場人物の「田中あすか」はとは誰であるか、というのは重要な問いであるように思われる。その存在は二期で大きくピックアップされ、物語には欠かせない存在であると思う。
彼女は二期において、彼女の抱える大きな問題が取り上げられ、久美子によってその問題は解決する。表面的になぞらえてこの関係性を見れば、演出上の問題に過ぎないかもしれないが、本当にそうだろうか?
このアニメを代表するキャラクターは、久美子、麗奈、あすか、の三人が重要な役割を持っていると思う。この問題が今後論じたいが、今はあすかに関して論じてみる。
田中あすかの態度はアニメを見れば、自己中心的でユーフォを愛し、どこか他人に対して冷めている態度を醸し出している。部活という共同体をそこまで考えていないような。
私が言いたいのは、「全国に行く。」という目的と田中あすかの目標を若干の乖離があったように思う、これは後に回復していく問題であるが。
自身の感情を吐露したのは間違いなく久美子だけであった。それ以外の人間には、どこか信頼を寄せていない描写が確認できると思う。
しかし、こうした態度は久美子も同じだったのではないだろうか?
麗奈に対して「ほんとに全国いけると思ってたの?」という一言は、どこか現実に対して冷め切った態度を感じさせる。当然ながら、久美子は本作品の主人公であり、騒動の中心的な人物である。
主人公の役目といえば、物語をすすめる事であるが、作品における部活という特殊な共同体が、全国大会を目指す、ということから懐疑的な態度から出発している。
これは、我々にも言えることであるが、誰かが大きな目標を立てたり、目指していると、それをどこか笑ってしまうような場面はある。つまり、久美子は現実的な我々の視点から出発しているということだ。この視点は麗奈によって、物語へと没入することになる。しかし、田中あすかは物語終盤にこの作品に没入することになる。
この図式をまとめれば以下のようになると私は思う。
久美子=主人公。現実的な視点から作品を出発する。しかし、麗奈によって物語に没入する。
麗奈=物語を代表する存在。実力、言動ともにカリスマ性を発揮させる。久美子を物語へと没入させる役割を担っている
あすか=現実的な判断を物語終盤まで持っている。しかし、それは久美子によって物語へと没入する。
この作品のテーマは、大きく現実判断にあると思う。どこか冷め切った態度をもった登場人物立ちは、現代人のようなものを感じさせる。もっといえば、我々のようなアニメを見る視聴者のような。
初めて、アニメを見た興奮を覚えているだろうか?そのときは何を見ても楽しく感じられたのではないだろうか?しかし、アニメ視聴者のあり方は変化し、物語の構造や欠陥を批判することに今の視聴者は目的が移り変わっているのではないか?
ここで二期の久美子とあすかの問答を思い出して欲しい。
きっと先輩に戻ってきて欲しいと、みんなが思っていると言った久美子に対して、あすかは、その人たちのこと久美子ちゃんはよく知ってるの?と問う。
この図式はまさに我々と同じである。アニメ作品において、ある程度のご都合的な展開は、いつしか我々は批判的に見てしまいがちである。
つまり、田中あすかはこの場面において、視聴者を代弁する存在であったことが見て取れる。しかし、久美子の「先輩だって、ただの高校生なのに!」という一言で思い直す。
我々は言ってしまえば、ただの視聴者である。ある程度の作品上の展開は、致し方ないものではないか。あすかを物語りに没入させることは、作品上大きなテーマだったといえる。それは同時に視聴者の作品に対する没入と同じだからである。
現に最終話では、あすかは卒業し、物語を離脱する。久美子は別れたくないというが、それに対して「またね。」と返し、久美子は麗奈に呼ばれ、また物語へと還る。
最終回は、視聴者とアニメ作品の別れである。あすかという代弁者は、この作品を離れるが、「またね」の一言は、この物語が続くことを示す。
同時に、久美子はその物語は離脱せずに、麗奈に再び導かれ物語を再開する。
ここに
久美子=物語の担い手。我々を導く存在。
あすか=視聴者であり、我々の代弁者。
麗奈=物語の担い手をさらに導く作品を代表する存在。
という構造が見て取れる。
これが正しいかどうかは私の妄想に過ぎないが、これからもこの作品を考察してみたい。