「響け! ユーフォニアム」の考察 -田中あすかは何者だったのか?-

 アニメ「響け! ユーフォニアム」といえば、武田綾乃の原作を京都アニメーションがアニメ化したことは、今日では広く知られている。このアニメは言ってしまえば、青春アニメであり、等身大の高校生達の悩みをよく描いた作品だと私は思う。もちろん、この作品は原作ありきで、それをなぞる様に作られている(恥ずかしながら私は原作未読である。)。このアニメに考察する余地があるのかどうか非常に微妙なところであるが、このブログで私の愚見の一端を示してみたい。

 

 副題にもあるとおり、登場人物の「田中あすか」はとは誰であるか、というのは重要な問いであるように思われる。その存在は二期で大きくピックアップされ、物語には欠かせない存在であると思う。

 彼女は二期において、彼女の抱える大きな問題が取り上げられ、久美子によってその問題は解決する。表面的になぞらえてこの関係性を見れば、演出上の問題に過ぎないかもしれないが、本当にそうだろうか?

 

このアニメを代表するキャラクターは、久美子、麗奈、あすか、の三人が重要な役割を持っていると思う。この問題が今後論じたいが、今はあすかに関して論じてみる。

 

田中あすかの態度はアニメを見れば、自己中心的でユーフォを愛し、どこか他人に対して冷めている態度を醸し出している。部活という共同体をそこまで考えていないような。

私が言いたいのは、「全国に行く。」という目的と田中あすかの目標を若干の乖離があったように思う、これは後に回復していく問題であるが。

自身の感情を吐露したのは間違いなく久美子だけであった。それ以外の人間には、どこか信頼を寄せていない描写が確認できると思う。

しかし、こうした態度は久美子も同じだったのではないだろうか?

麗奈に対して「ほんとに全国いけると思ってたの?」という一言は、どこか現実に対して冷め切った態度を感じさせる。当然ながら、久美子は本作品の主人公であり、騒動の中心的な人物である。

主人公の役目といえば、物語をすすめる事であるが、作品における部活という特殊な共同体が、全国大会を目指す、ということから懐疑的な態度から出発している。

これは、我々にも言えることであるが、誰かが大きな目標を立てたり、目指していると、それをどこか笑ってしまうような場面はある。つまり、久美子は現実的な我々の視点から出発しているということだ。この視点は麗奈によって、物語へと没入することになる。しかし、田中あすかは物語終盤にこの作品に没入することになる。

この図式をまとめれば以下のようになると私は思う。

 

久美子=主人公。現実的な視点から作品を出発する。しかし、麗奈によって物語に没入する。

麗奈=物語を代表する存在。実力、言動ともにカリスマ性を発揮させる。久美子を物語へと没入させる役割を担っている

あすか=現実的な判断を物語終盤まで持っている。しかし、それは久美子によって物語へと没入する。

 

この作品のテーマは、大きく現実判断にあると思う。どこか冷め切った態度をもった登場人物立ちは、現代人のようなものを感じさせる。もっといえば、我々のようなアニメを見る視聴者のような。

 

初めて、アニメを見た興奮を覚えているだろうか?そのときは何を見ても楽しく感じられたのではないだろうか?しかし、アニメ視聴者のあり方は変化し、物語の構造や欠陥を批判することに今の視聴者は目的が移り変わっているのではないか?

 

ここで二期の久美子とあすかの問答を思い出して欲しい。

きっと先輩に戻ってきて欲しいと、みんなが思っていると言った久美子に対して、あすかは、その人たちのこと久美子ちゃんはよく知ってるの?と問う。

この図式はまさに我々と同じである。アニメ作品において、ある程度のご都合的な展開は、いつしか我々は批判的に見てしまいがちである。

つまり、田中あすかはこの場面において、視聴者を代弁する存在であったことが見て取れる。しかし、久美子の「先輩だって、ただの高校生なのに!」という一言で思い直す。

 

我々は言ってしまえば、ただの視聴者である。ある程度の作品上の展開は、致し方ないものではないか。あすかを物語りに没入させることは、作品上大きなテーマだったといえる。それは同時に視聴者の作品に対する没入と同じだからである。

 

現に最終話では、あすかは卒業し、物語を離脱する。久美子は別れたくないというが、それに対して「またね。」と返し、久美子は麗奈に呼ばれ、また物語へと還る。

最終回は、視聴者とアニメ作品の別れである。あすかという代弁者は、この作品を離れるが、「またね」の一言は、この物語が続くことを示す。

同時に、久美子はその物語は離脱せずに、麗奈に再び導かれ物語を再開する。

ここに

久美子=物語の担い手。我々を導く存在。

あすか=視聴者であり、我々の代弁者。

麗奈=物語の担い手をさらに導く作品を代表する存在。

という構造が見て取れる。

 

これが正しいかどうかは私の妄想に過ぎないが、これからもこの作品を考察してみたい。